無料ブログはココログ

« フィールドワークが近づいてきました! | トップページ | 天王寺美術館と一心寺 »

2016年9月 6日 (火)

またゆっくり行きたいね 真田山軍人墓地

Img_0075
三光神社です。最近は真田幸村ゆかりの神社として訪れる人も多いようですが、見ていただきたいのは鳥居です。この写真は本殿の前にある鳥居。分かりにくいと思いますが手前と後ろ側と鳥居が二重になっています。 1945年(昭和20年)6月1日の大阪大空襲で付近一帯が全滅したときに、本殿などと共に爆撃にあい、左側は足元の部分が残り右側は上までそっくり残って「片足の鳥居」と呼ばれています。戦後すぐ壊れた鳥居は残して、後ろに鳥居を立て直し、このような姿になりました。

Photo


←同じように神社入口に左側の足元部分だけが残った鳥居があり、その後ろにも新しい鳥居が立てられています。

真田山軍人墓地ではNPO法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会の吉岡さんから事務所でお話を伺いました。

Img_0098
資料室には膨大な資料がありました。陸軍軍人墓地は明治維新以後軍隊を作らねばならないと考えた当時の政府が、陸軍から作り始めそれに付随して陸軍病院、陸軍墓地を作っていったとの説明を受けました。

Img_0105また、西南戦争、日清戦争、日露戦争と戦病死者が増えるにつれ、個人墓から合祀墓になっていったことなど教えていただきました。

お墓を巡りながらきっちり説明していただくと2時間かかるということで、今度、この墓地だけの企画を立てようということになりました。そのときにはもっと多くの方のに参加していただけるよう、宣伝もしたいと思います。

Img_0108

Img_0111全国80カ所に建設されたそうです。

Img_0089
Img_0090_2












生玉地下壕

生玉神社から南へ行ったところに地下壕の通気筒があります。

Img_0115

上部を叩くとコンコンと軽い音がします。この下に地下壕があったのですね。この通気筒西側の階段を下りていくと入口がありますが、現在はコンクリートでふさがれています。

Photo_2上の写真は下見の時のもの。 
下が9月4日撮影です。木の陰で見えにくいと思いますが。

Img_0118_2大阪府と大阪市が立てた銘板↓

Img_0119《銘板の内容》

 先の戦争において我が国はアジア・太平洋地域の人々に対し大きな災禍と苦痛をもたらしたことをわすれてはなりません。また、大阪においても8次にわたる大空襲を含む50回を超える空襲を受け、まちは一面の廃墟となりました。

 生玉公園は1940(昭和15)年5月着工、42(昭和17)年5月に開園、地下壕は当時郡部が戦局を拡大させる中で空襲に備えるための「都市防空壕」として大阪市によって建設された。

 地下壕については、その建設経過や使用状況などの詳細は明らかになっていませんが、戦争末期には陸軍が使用していました。戦後、米国戦略爆撃調査団により刊行された報告書では、当時、一般では入手できなかった資材を使用して建設された「特別防空壕」の例として報告されています。

 また、この地下壕建設にあたっては、当時の植民地支配の下で「強制連行などにより集められた朝鮮人が苛酷な労働に従事させられた」との体験者の証言があります。

 戦後の50年にあたり、戦争の悲惨さを語り継ぎ、国籍・民族・文化等の違いを超えた相互理解と友好を深め、世界平和を心から願う気持ちを込め、ここに銘板を設置します。

1996年(平成8年)3月 大阪府/大阪市

地下壕の構造

 内部の構造はアーチ状で鉄筋コンクリート造り、2階建て(ただし2階部分は現存せず)で、本体は幅約9m、高さ約6.5m、長さ約24m、1階部分の床面積203平方メートルとなっています。







« フィールドワークが近づいてきました! | トップページ | 天王寺美術館と一心寺 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1447578/67365445

この記事へのトラックバック一覧です: またゆっくり行きたいね 真田山軍人墓地:

« フィールドワークが近づいてきました! | トップページ | 天王寺美術館と一心寺 »