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2015年10月30日 (金)

中国人強制連行の国賠裁判 1回目

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              (写真は原告団と弁護団の方々)

戦後70年の節目、大阪ではじめての中国人強制連行の国賠裁判が今日はじまりました。

裁判長は柴田義明さん、裁判官は傍聴席から見て右が矢崎達也さん、左が渡辺佳寿子さんです。

今日は原告から訴状を陳述、中国からこられた原告3人が証言を行いました。

3人とも日本軍によって父親を連れ去られ、その後、苦労を強いられた息子、娘さんです。

私は不勉強で知りませんでしたが、日本側が強制連行でなく自発的に日本に来て働いていたのだという立場をとったために、敵国で生産活動に加わったと汚名を着せられ、家族までいじめをうけたということです。

今回の裁判は、

拉致・連行・強制労働の全過程において暴行、虐待、劣悪な待遇、不衛生な環境があった。それに対する国の責任を追及するものです。国は労働環境においては逆に虐待を促すような指導を企業に行っていました。また、強制連行による受難者とその家族の名誉を回復することも目的であると、傍聴して感じました。

原告証言① 男性

 父親は連れ去られ、いくら待っても帰ってこなかった。父と一緒に捕まった人が「父が日  本で死んだ」と教えてくれた。父の姿を見たことはない。写真も一枚もない。母は喘息で当時飲み水にも苦労した。母が物乞いをして暮らしていた。子どもを余所へやったらどうかと言う人もいたが、母は「父の顔も知らないのに。この子のそばに家族がいなければ。たとえ餓死 しても離れない」と拒んだ。
生涯、父にあったことも父の愛情も知らない。私の苦難の人生はすべて日本政府がもたらしたものだ。

原告証言② 女性
 父も母も、父が日本にいたことがあるということを話したがらなかった。1978年9月以降 話すようになり、私も父の意思を継ごうと思った。
1939年憲兵隊に捕まった父は捕虜収容所に送られ、ひどい拷問を受けた。その後練兵所にも送られた。
1944年8月にチンタオに送られ鉱石を満載した貨物船に乗せられ下関に送らた。 そこから花岡に送られた。1000人いた中国人のうち419人が死亡した。
父が捕まった後消息が分からず、畑を売って消息をつかもうとした。捕虜収容所まではたどり着いたが、そこから分からなかった。
父は帰国後党の仕事についたが、日本にいたことが分かり冷遇された。
加害者は日本政府であり日本政府に責任をとらせることは、父の意思をつぐことである。

原告証言③ 女性
 私が5歳のとき、毎日たくさんの壁新聞が貼られ、たくさんの人が父を指さして罵りました。私も学校に行くようになって、悪者の娘と罵られ石を投げられたりして、いじめられました。
父は抗日遊撃隊にいたとき日本軍に捕まりました。鉱石でいっぱいの船に乗せられ、日本に送られました。船倉の中は鉱石でいっぱいで、そのうえに座らされました。
途中病気で倒れたり死んだりした人は、海に捨てられました。

大阪での荷役作業では、毎日3トン運ばされ、少しでも休むと木刀で殴られました。押車   で荷を運んで、ひっくり返してしまったときは、立つこともできないぐらい殴られました。牛馬に勝る労働、牛馬に劣る食事でした。死んだ者はみな、焼かれました。

父は、この歴史を忘れてはならない、いつの日か日本政府と企業に謝罪させ、亡くなった仲間の碑を作らねばと言っていました。

1976年、兄が18歳のとき徴兵募集があり応募しましたが、父の経歴が問題となり落とされました。私も同じ理由で落とされました。

父の名誉が回復してから父は仕事に戻りましたが、その後病死しました。


裁判終了後の報告会で丹羽弁護士は「この裁判は世代をつなぐ裁判」とおっしゃいました。被害の歴史と加害の歴史を次の世代につないでいかなければなりません。

次回公判は未定ですが、分かったらこのブログでお知らせします。みんなで支援していきましょう。(会員 N)

 

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