
7月18日、11名の参加で今年4月に開館した宇治市のウトロ平和祈念館に行ってきました。
会としてのフィールドワークはコロナ禍の影響もあり2019年9月の大阪城周辺の戦跡巡り以来久しぶりのことでした。
置き去りにされた街
このウトロ地区は戦時中の1940年京都飛行場建設のため朝鮮人飯場が設置されたのですが、45年の敗戦に伴い工事は中断され、仕事もなくなりました。しかし日本政府は無責任にも彼らを放置したままにしたのです。まさに日本社会から「置き去り」にされたのでした。しかし彼らは飯場を家に変え、畑をつくり、茶摘みや日雇いの仕事に従事して粘り強くこの地で生活を続け、また政治的な弾圧にも屈せず「民族教育」も存続させました。
その後不当にも立ち退きを迫られ裁判でも敗けたのですが、多くの日本人支援者とともに闘い続け、6000万円の市民募金を集めたり、韓国での市民運動の拡がりが韓国政府に伝わり、有名人も参加して3億6000万円の募金が集められました。そのような30年に及ぶ住民の命がけの闘いがついに行政を動かし、強制退去の危機を乗り越え、インフラ整備も整い始め、新しい街づくりが始まりました。そしてこの地で多くの人々の交流の場としてこの祈念館が建設されました。
若い人たちが見学に
2Fにある展示品を詳しく説明していただいたのは金秀煥(キム・スファン)副館長でした。そこには貧困と差別にも負けずに生き抜いてこられた人々の生々しい姿が数多く展示されていました。
途中で気付いたのですが、私たち以外にも数名の人たちが金さんの説明に聞き入っていました。他にも何組かのグループを見かけましたが、若い人が多いのには驚きました。(もっともこちらが年を取りすぎているだけかも知れませんが・・)若い人たちがこういう場で歴史を学ぶことは本当に大切なことだと思います。(学校の課外授業に取り入れても・・とは思いますが、現在のように「維新」が幅を利かせているあいだは無理でしょうね)
安田菜津紀さんの想い
さて金さんの説明や展示品を見た個人的な感想をあげてみます。
〇ウトロに朝鮮人が来たのは、いわゆる強制連行ではなく徴用と貧困から逃れるためでした。何故貧困になったのか・・それは1910年の日韓併合以降、日本人から仕事を取り上げられたり、詐欺的に土地を収奪されたりしたからでした。例えば「すべて日本語で書いてある書類が届いて、ハンコを押せと言われて押したところ、土地を丸ごと奪われてしまった」(安田菜津紀「世界」4月号) 同じような話はいろいろな文献で何度も聞いています。土地を奪われ仕事を取り上げられ、やむなく渡日せざるを得なくなったのでした。
〇京都市南区東九条(通称「トンク」と呼ばれているらしい)の鴨川の堤防付近は安田さんの父親のルーツの一部で彼女も訪れています。(「世界」5月号)(もちろんウトロにも)
〇子供の豚の餌集め・・臭くて子供は皆嫌がったとのこと
私も子供の頃、大きな樽を台車やリヤカーに積んで残飯を集めに来ているのを憶えています。朝鮮の人か沖縄出身の人かは分かりませんが・・
〇ドブロク・・酒好きだった亡父(私もしっかりと引き継いでいますが・・)が近所の朝鮮人集落の店でよく飲んでいました。私は横にちょこんと座って何かおかずを食べていました。
〇戦後の社会保障はすべて「国民」(日本人)が対象で、本来被害者のはずなのに、在日の無年金が続いている。
私は「国民」という言葉は極力使わないようにしています。(どうしても使わざるを得ない場合もありますが・・)この日本で生活しているのは日本国籍を持っている人だけではなく、そうでない人も多くいて、ともに等しく「人権」を有しているはずです。
「(日本政府は)日本の植民地支配や戦争に翻弄され続けてきた人々に対し、その責任と向き合うどころか、むしろ生きる権利をないがしろにするような扱いを続けてきたことになる。難民条約批准にともない、制度における「国籍条項」が1982年に撤廃されてもなお、その狭間で法的措置から除外され無年金のまま放置されてしまった障がい者、高齢者たちがいる。(安田菜津紀「世界」4月号)
この間不十分ながら一部の地域で障がい者の年金支給が勝ち取られましたが、これはあくまで地域の行政との長期間に及んだ交渉の結果によるもので、国は相変わらず知らんぷりを決め込んでいます。
武庫川河川敷の思い出
私が生まれ住み続けている尼崎ととなりの西宮の間には武庫川が流れています。
私が幼いころ(5~6歳)その河川敷にバラック小屋が密集して建っていました。そこは「怖い所」「不潔な所」として行ってはいけないと言われていました。しかし何年かしてバラックは撤去され「きれいな」河川敷がよみがえり、私たちは「安心して」水遊びをするようになりました。
そこが武庫川の河口にあった川西航空機(現新明和工業)に徴用されていた朝鮮人が、ウトロと同じく敗戦で放置され、やむなく住みついた場所であったと知るのはずっと後になってからでした。
強制撤去で住む場所を奪われた彼らは何処へ行ったのでしょうか。ウトロのような闘いがあったのでしょうか。その河川敷横の堤防のすぐ東側が私の通っていた中学校の校区で中に朝鮮中学もありましたので、何割かの人たちはその周辺で生活を続けたかも知れませんが・・今となっては詳しくは分かりません。
ヘイトに屈せず
2021年8月、この地区が放火され、7棟が全半焼しました。祈念館に入る前にその現場を通りましたが、その痛々しい光景に心から怒りを憶えました。
また朝鮮学校襲撃事件などにみられるように「在特会」の存在はじめ、私たちの周りにはまだまだヘイト感情が蔓延しています。そもそも政府がかつての徴用工や従軍慰安婦の存在を否定し続け「その解決の責任は一切韓国側にある」と加害者と被害者の立場を逆転させるような態度に固執しています。盗人猛々しいとはこのことではありませんか。
私たちはこの現実を直視し、「歴史修正主義」とヘイトに屈せず、真の歴史を後世に伝える闘いを続けなければなりません。
「ウトロは人権という価値を守り抜いた闘い」(金さん)
見学の最後は祈念館前にある当時の住居の前で記念写真を撮り解散となりました。
参加された皆さん、ご苦労様でした。
おまけ
祈念館の屋上に上がると、すぐ横に自衛隊大久保駐屯地が広がっていました。もう何年前になるでしょうか。昔(PKO派遣の時?)デモで押しかけたので何か懐かしい気持ちになりました。(会員 Y)
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